タムラ
田村

 清水寺に参詣した東国の僧が、櫻の木陰を掃き清めている童子に出会い寺の来歴を尋ねると、坂上田村麿が建立したという清水寺の由緒を語り、周囲の名所をも教えるが、月が出て櫻の花に映すとこれの方が名所に勝る眺めと春宵一刻値千金の風情を楽しむ。
 景色を愛でる童子の非凡さに僧が名を尋ねると、知りたければ自分の行く方を見よと答えて田村堂の内陣へと消える。
 その夜、桜の下で法華経を独誦する僧の前に坂上田村麿の霊が現れ、千手観音の擁護で鈴鹿山の悪魔を退治した様を語る。

曲柄:二番目
季節:三月
等級:五級

 坂上田村麻呂は征夷大将軍で、蝦夷の首魁なるアテルイ、モレの二人を河内の椙山で斬った人物として、私の住んでいるこの地ではよく知られている。アテルイ、モレが河内で斬首されるに至る経緯は他の資料に譲り、田村麻呂の時代背景について述べてみたい。
 光仁天皇の宝亀五年(774年)から始まり、桓武天皇の天応・延暦の全期間、嵯峨天皇の弘仁二年(811年)に至る38年間に及ぶ、東北三十八年戦争と呼ばれる戦いの中に彼は登場する。全国の総人口200万人とも考えられている当時、38年間6回にわたる20万人を超える出兵を見ても、大和朝廷側総力戦の様相を呈している。
 彼の名が出てくるのは第四次からで、第五次出兵で征夷大将軍として全軍を指揮する。戦場となったのは現在の宮城県北部から岩手県南部にかけての一帯で、蝦夷の本拠地胆沢郡(新生奥州市)を配下に治める事を目指した。この時彼の前に立ちはだかったのが、蝦夷軍の主将アテルイと、その副将モレである。
 アテルイは阿弖流為とも表記され、名前の由来はアイヌ語の「アト・オ・ロイ<おひょうの皮(アイヌの民族衣装であるアッシの原料)を水に漬ける>」から来ているとも考えられている。
 坂上田村麻呂は征夷の英雄となり軍神と崇められ、毘沙門天の化身と讃えられ伝説化する事になる。
 当時の東北は大和朝廷配下の地域とは異なって独立しており、「蝦夷征伐」も東北(日高見国)から見れば「祖国防衛戦争」に他ならない事になる。
 この地では数年前、アテルイ1200年祭と称してアテルイ、モレの首塚や田村麻呂ゆかりの清水寺参詣等、アテルイを顕彰する行事が年間を通して盛大に催された。
 私にとって「田村」は特段に感慨深いものがあり、謡う度にこの地のいにしえの戦いに想いを巡らし、気分はアテルイとなる。



 
 

 
   
    
   
   
  麿 

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